の間

1974年生まれ。東京造形大学美術学科Ⅱ類卒業。

プロダクツデザインに彫刻的な方法論を導入した作品を展開する大畑周平は、「手相を変えるための指輪」「お香として炊ける貨幣」など、

実際に体験する行為を通して「人」と「モノ」、「現実」と「非現実」の間を横断する装置としての作品を発表する。また近年は食をテーマとした作品を中心に手がけている。 横断する装置としての作品を発表する。また近年は食をテーマとした作品を中心に手がけている。S

Coin

a porcelain dish bitten by a mouse

Ruka

Kendama strap

Like a bugle

Where are we going?

リュミエール=光  2006〜


「リュミエール」は「からだの中に炎をともす」という叶わぬ願いから生まれた作品です。

カカオバターとよもぎの芯でろうそくのように炎を揺らすチョコレートを参加者全員で食べて

いきます。炎を口のなかに放り込むという経験はとても新鮮で、神聖なものになるでしょう。

さらにトイピアノ、アコーディオン、ヴァイオリンなどの生演奏が、会場を包み込み、

気分を盛り上げていきます。


炎を口にするとき、毎回様々な物語が生まれます。 抵抗なく口に入れる人。怖じけずいてしまう人。

食べ終えた人は食べられないでいる人を応援したり、説得を始めたりと、会場を見渡すとそんな光景

を今までいくつも見てきました。 セレモニーはほんのひと時ですが、この体験が記憶のどこかに残

り、人と何かを共有する喜びだけでなく、食べることの不思議さを感じてもらえたらと思います。


私がこの行為に惹かれるのは、炎というエネルギーそのものを食べようとするところにあります。


私たちが日々の口にしている食べものに目を向けてみると、果実は太陽の恵みによって実りますし、

料理の中でも加熱という工程は消化の働きを助けたり、美味しくする上で火と言ったエネルギーは重

要な働きを担っています。ただ炎は口に含んだ途端消えてしまいますので体内まで届くことはありま

せん。 私たちは太陽の光や炎そのものを食べることは出来ませんが、それらの痕跡を食べていると言

っても良いのかもしれません。「リュミエール」は、こうした食べる事の不思議さを共有するための

試みなのです。

ラッパのように  1999〜


これは「ポンポン船」という昔ながらのおもちゃから着想を得た作品です。「ポンポン船」は船の上に乗せたロウソクに火を着け、パイプを温めることによってパイプから水を吸い、また同時に吐き出す運動を繰り返し前進します。


彫刻としての硬貨


物の価値について考える時、先ず思い浮かぶのがお金です。

お金は物に交換する権利を証明するものであります。そして誰にでも証明出来、信頼される為の一つの方法として、

硬貨や紙幣と呼んでいるものがあります。それは、私たちの生活に深く浸透しているものです。

貨幣や紙幣には、その信頼を損ねないようにルールが設けられたり、複製させないよう、時代に合わせた高度な知恵と技術が注ぎ込まれます。

用いられる素材の可能性を最大限に引き出し、造形としても美しさを兼ね備えたものが、同時にモノとしての価値を持たない。この相反する要素を持つものが硬貨や紙幣なのです。


それではかたちや素材とは何か?また、作られたものが語られる文脈の持つ影響力とは何か?

こうした素朴な疑問が私の頭を駆け巡ります。

それは造形活動に関わる者だけの問題ではなく、あらゆるものに付いてまわる問題です。

その中でも、硬貨や紙幣程直接的に感じられるものも無いと思います。

そこで今回は硬貨をモチーフにこの疑問と向き合う場を生み出そうと、コインという作品が生まれました。

この作品は、硬貨の形をしていますが、金属製ではなく、お香で出来ています。

お香は、樹木を主な原料とし、火をつけることによって出る煙が、空間に匂いを充満させ、人の気分を高揚させたり、集中させたり、リラックスさせる効果を持つものです。


鑑賞者にお香を焚いてもらいますが、観る人によっては、お香とコインが組合わさる事により「お香に火をつける=お金を燃やす」という行為を通して物の価値観を壊すイメージや、視覚より嗅覚に訴えかける事から、虚構に酔う人間の姿が重なるようです。しかし、私の興味はあくまでも、素朴な疑問から出発しています。

硬貨の持つ権利と言った目には見えないものを証明するためにものを生み出す事について、

そして、そのために用いられる素材について言及することです。


硬貨は金属としての価値が無視されますが、お香に置き換えることで、素材としての価値が生まれます。

ただし、かたちは変わらないものの今度は本来の硬貨としての価値は失われます。

お香は使い終わると灰になり、役割を終えますが、ほぼ原型を留めます。

灰で出来た硬貨の造形物、部屋に充満する香りとその風景は、鑑賞者にはどう

おそらくその風景に残されるものは、思考とか意識と呼ばれているものではないでしょうか?

光ヲノム


光とモノが互いに結びつくと色彩になり、視覚を刺激する。

光が無ければモノを見る事は出来ない。

しかし実際に見えているものは光そのものではなく、色彩という形で表れる光の痕跡。


太陽からの光の恵みが果実を熟すように、食べものも、光とモノが結びついている。

そして、食べ物という形で受け取る光の痕跡。


私たちは光から多くの恩恵を受けているにも関わらず、光そのものを計る事が出来ない。

それ故に光に強く惹かれるのだろうか?


光ヲノムは、光そのものを捉えたいという欲求から生まれた、

光を呑むための器である。


この器を使って飲み物を飲むと、

飲み干す瞬間に光の雫を呑み込む感覚を味わうことが出来る。



ルカ=手


 「RUKA」は拳銃の銃口部をイメージした指輪です。これは単純に拳銃ごっこの為の遊び道具だけ

ではなく、人差し指の為の記念碑でもあります。何故なら人差し指とは、きわめて人間的な部分を表

しているからです。


 手は感情を表現する上で重要な役割を果たし、中でも人差し指を突き出した動きは、強い意志を表

します。しかし、この動作が拳銃ごっこのポーズと一致するのは、人の意思によって道具は凶器にも

変化することを、肉体自身が語っているかのようです。


 また、この人差し指の運動が人間独自のものである証拠として、手のひらにある曲げ皺が挙げられ

ます。サルの場合は横一文字に刻まれていますが、人間は何か遠くのものを指差す時や、細かい作業

の中で人差し指を使い、曲げ皺が引っ張られ、離れていったと言われています。もちろん例外として

サルと同じ皺が見られる人もいますが、曲げ皺の離れたサルは見られないそうです。


 私の場合、両手ともサルと同じ手相を持っていた為に、この指輪をはめ続けることで人(の手相)に近づこうと試みたのが、この作品が生まれる切っ掛けでした。

 五年程続けたのですが、全く変化がない状態です。



"RUKA" is a ring shaped in the image of a gun's muzzle. It is not only a simple plaything to

play gunfight with, but also a monument of one's forefinger, for one's forefinger represents a

very human part.


Hands play an important role in expressing feelings, and among others, an act of thrusting

out one's forefinger shows his or her firm will. This act, however, coincides with a gesture in

playing gunfight. It seems that the body itself shows us that an object we use could turn out to

be a weapon,depending on one's will.


  Lines or wrinkles on the palm of one's hand provide a piece of evidence that the forefinger's

movements are particular to human beings. In monkeys' case, it has one straight horizontal

line on the palm of its hand. It is said, on the other hand, that the lines on human hands came

to be pulled apart as their forefingers were used in pointing at something far away or doing

some elaborate work. There is, without doubt, an exception that some people have the similar

lines as monkeys. However, there is no monkey that has separate lines.

目的地はどこ? 2000


ジェット機のコックピットは切り取られ、しかし金槌としての機能を獲得することになった。

そして、コントロールはパイロットでなく私自身に委ねられる。



Where are we going? 2000


A jet plane had its cockpit cut off , yet it came to obtain in the function of a hammer instead.

And now, the plane is left not to a pilot but to ourselves.