チョコレートの魔力が、私たちの心に火をともす         森啓輔 (ヴァンジ彫刻庭園美術館)


今回、茨城県守谷市に拠点をもつアーティストインレジデンス施設ARCUS(アーカス)のイベントが、場所を移して同県水戸市にある茨城県三の丸庁舎で行われた。

ディレクターが昨年変更したこともあってか、最近のARCUSはレクチャー、ワークショップなどレジデンス事業以外の活動も目立ち、関東圏では目が離せない施設の一つである。


その一企画である今回のイベント「リュミエール」は、大畑周平と いう作家が企画者であるが、「火がついたチョコレートを食べる」というその内容に、私は一瞬耳を疑った。火を口の中に放り込むという、この暴力的な行為。 この行為を聞いて人は、赤く熱せられた鉄の棒を舐める大道芸人や、立ち昇る炎の一本道を素足で歩く修行僧の姿を思い浮かべはしないだろうか。そして、自分 の舌が焼け焦げるような錯覚に、顔を苦痛で歪めはしないだろうか。しかも、このイベントは作家だけが行う特別な行為ではなく、参加者全員により行われる鑑 賞者参加型のイベントなのだ。


そもそも火は、文明を生み出すかけがえのないものでありながら、全てを焼き尽くし灰に帰してしまう恐ろしい存在である。けれどもそんな一方、火がついた チョコレートの触感を味わうという、未知の味覚に対しての誘惑に強く誘われもする。チョコレートは、「媚薬」だという。果たして一体どれほどの参加者が、 チョコレートがもつ魔力に誘われ、恐怖と誘惑に引き裂かれながら、会場に集まることであろう。


JR水戸駅から徒歩数分の場所に位置する、茨城県三の丸庁舎。1930年(昭和5年)に建てられ、現在映画やテレビドラマのロケ地としても頻繁に使用され るこの建物は、外観がレンガ張りで、昭和初期の建築物の佇まいを今も残している。イベント開始に間に合うよう訪れた夕方頃には、深い暗闇の中に建物がライ トアップされ、建物のもつ冷たい美しさを一層醸し出していた。「火がついたチョコレートを食べる」という神秘の儀式には、まさにうってつけの場所である。


受付で手続きを済まし案内された室内は、照明が落とされてはいるが、会場を横断する7、8mほどの長机の上に立てられた10本の装飾的な蝋燭が、部屋全体 を怪しく照らし出している。思いのほか多くの人々に込み合う会場は、外気の冷たさとうって変わって、今か今かとイベントの開始を待ち望む熱気で温かい。薄 暗いながらも、比較的若い女性が目立つ会場は、さながら流行の音楽イベントのような印象も受けるが、それでも火のついたチョコレートを食べるという未体験 の行為を前にして、ただのイベントとは異なる密度の興奮が伝わってくる。


定刻になり、儀式は厳かに開始された。正装した二人の男性がトイピアノとアコーディオンを手に取り、軽やかで美しい音色が会場に満たされる。すると女性ス タッフたちが、白い布に覆われた長机上の白い台座に、等間隔に小さな丸いチョコレートを並べていく。さらに続けて彼女らは、会場を回りながら一人一人に蝋 でコーティングされた細長い糸を手渡していく。どうやら、参加者が直接自分で蝋燭からチョコレートに火をともす仕掛けらしい。


そして、最後に登場した大畑周平は、落ち着いたトーンでことばを紡ぎ始めると、チョコレートを食べる作法を、まず身をもって実践し始める。大畑は、蝋燭か ら紐に火を移し、さらにその火をチョコレートにともして数分たつと、小さな丸い炎をゆらゆらと揺らしながら、自身の口にそっと放り込む。観客の小さな悲鳴 と一瞬の沈黙の後、大畑は笑顔を絶さぬまま参加者に優しく行為を促した。


促されるままに一人、また一人と蝋燭の火をチョコレートに移し、食べる準備を整えていく。私もチョコレートに火をともし、じっと小さく燃える炎を見つめ る。そして、恐怖と誘惑の間で躊躇しながらも、私は思い切ってチョコレートを口の中に投げ込んだ。口の中で火が転がるような感覚。たまらずチョコレートを 噛み砕くと、溶けたチョコレートの熱が口内に伝播する。この痛覚を刺激する痺れるような、それでいて心地よい、何ともいえない不思議な感覚に、私はどぎま ぎしながら酩酊し、しばしその余韻を味わった。大人になるにつれ、人は痛みを避けることを覚え、痛みに臆病になっていく。この感覚は、無邪気で幼かった頃 の忘れ去られた記憶を、なぜかぼんやり思い起こさせた。


あたりを見回すと、いつの間にか嬉々とした喧騒が部屋を包み込んでいる。溶けるチョコレート独特の質感を堪能した人、火を口に入れるという行為に無我夢中 で、味わう余裕がなかったことを悔やむ人。参加者全員が火のついたチョコレートを口に入れることで、大畑が計画した「からだの中に火をともす」という儀式 は、無事に完遂された。


火を口の中に放り込む行為と代償に、私たちの体の中にともされたチョコレートの火は、その場にいた全員の心を暖めてくれたのだろうか?それならば、大畑こ そが火と心をあやつる稀代の魔術師に違いない。不思議な一体感と高揚感に包まれた会場内で、ふっとそんなことが私の心をよぎった。